世界一分かりやすいサーフィン上達物語
早朝の6時、夜明け前の静けさを切り裂くように、波が砕ける音が響いた。海岸沿いの木々が、朝もやに包まれて幻想的な雰囲気を醸し出している。
物語の主人公である「ヒロ」は、IT企業に勤める35歳の週末サーファーである。
沖縄出身沖縄在住で、妻と娘の3人暮らしをしている。サーフィンは25歳の時に始めて、サーフィン歴10年の中級者だ。
ヒロは家族の時間を何よりも大切にする、普通の会社員。会社では責任のある仕事を任されることもある中間管理職の立場である。
3年前に娘が生まれてからは、仕事と家庭のバランスの中で、趣味のサーフィンを続けることが難しくなってきた。
今では週に1回サーフィンに行けたら良い方。時には2ヶ月サーフィンできない時もある。
この日は、家族と相談し、約1ヶ月ぶりのサーフィンを楽しもうとしていた。
4月初旬の沖縄は気温こそ高くなったが、海水温はまだ少し冷たい。周りのサーファーは海パンでサーフィンをしているヒトも増えてきたが、沖縄育ちのヒロは寒さに弱く、4月の沖縄でも3mmフルスーツを着ていた。
ヒロは波を待つ間、海面に両手を浸し、肩の痛みを和らげようとした。朝もやの向こうで、新年度の始まりを告げるように初日の出が水平線を染め始めていた。
「やっぱり痛いな…」
右肩の奥で感じる鈍い痛み。最近では、パドリングを始めて数分で現れるようになっていた。心配なのは肩の痛みだけではない。三十五歳の体は、確実に以前とは違う反応を示していた。
沖に向かって整然と並ぶ波のラインを見つめながら、ヒロは心の中で計算を始めた。
もう10年目になる週末だけのサーフィン。
毎週サーフィンしていると仮定すると、1年間で52回もサーフィンに時間を使っている計算だ。
1度のサーフィンで10本の波に乗れたとする。1本あたりのライディング時間は10秒程度。
それを計算すると、1年通い続けて、波に乗れている時間は1時間30分程度。
「それじゃあ上達しないのも無理ないか…」
サーフィンはなんでこんなに難しいんだろう?
腕に着けたアップルウォッチが小さく振動した。午前7時30分。そろそろ引き上げる時間だ。
ヒロは最後にもう一度、沖を見つめた。今日も結局、まともに波に乗れたのは3本。たった30秒のライディングのために、2時間近く海の中にいたことになる。
「こんなんじゃ、続けるメリットってあるのかな」
朝もやが晴れ始め、木々の向こうから朝日が差し込んでくる。新しい一日の始まりを告げるように、波は黄金色に輝いていた。
玄関のドアを開けると、トーストの香ばしい匂いが漂ってきた。
「ただいま」
「パパ!」
ヒロの娘のカナ。3歳になる活発な女の子だ。色々なことに好奇心を持ち、なんでも積極的に挑戦する性格だ。お父さんであるヒロのことが大好きで、仕事で遅くなると不機嫌になる。
リビングから駆け出してきたカナが、濡れた髪のヒロの足にしがみついた。まだパジャマ姿の3娘は、ヒロの帰りを待ちわびていたようだった。先週誕生日を迎えたばかりで、まだ幼児らしい甘えっぽさが残っている。
「おかえり。今日はどうだった?」
ヒロの妻であるミナ。ヒロより2つ年上の姉さん女房だ。看護師の仕事をしていたが妊娠をきっかけに退職。ヨガの先生の資格を持ち、料理が得意。今は子育てのため育児に専念している。自身もサーフィンの経験があるため、ヒロの趣味であるサーフィンを好意的に考えている。
キッチンからミナの声が聞こえる。週末の朝は、家族で朝食を楽しむ大切な時間だった。
「うん、波はまあまあだったよ」
ヒロは明るく返事をしながら、娘を抱き上げた。すぐにTシャツが湿っていくのを感じる。
「パパ、つめたーい」
とカナは構わず笑っている。
「シャワー浴びてくるね」
「うん。朝ごはんもうすぐできるから。そうそう、今日の午後、ストライダー見に行くんでしょ?」
「そうだった!カナの誕生日プレゼント」
ヒロは思い出したように声を上げる。
「カナのカッコいい乗り物見つけようね!」
「うん!」
カナは嬉しそうに頷いた。
洗面所の鏡を前に、ヒロは右肩をそっと動かしてみた。痛みはまだあるが、人に気づかれない程度には抑えられている。手早くシャワーを済ませ、キッチンへ向かう。
ヒロ「今日もミルクにサマハンでいい?」
ミナ「うん、ありがとう」
スリランカの伝統的なスパイスティー「サマハン」をホットミルクで溶かしていく。甘くスパイシーな香りが立ち上る。これは、ミナが疲れている時の定番になっていた。
「パパ、はやくー!」
ドアの向こうでカナが呼んでいる。
リビングのテーブルには、トーストとスクランブルエッグ、それにベーコンが並んでいた。カナは既に自分の席で、スプーンを握りしめている。
ヒロ「いつもありがとう」
ミナ「うん。波は乗れた?肩の調子は?」
ミナはサマハンの入ったマグカップを受け取りながら、さりげなく尋ねた。看護師としての職業柄か、ヒロの体調を気にかけている。
「うん、まあね」
ヒロは軽く答えたが、その声の調子に何かを感じ取ったのか、ミナは少し考え込むように夫の表情を見つめた。
「今日は楽しみだね」
ミナは話題を変えるように言った。
「カナの初めての乗り物、どんなのがいいかな」
土曜の朝の食卓。家族との何気ない会話と、体の奥に残る疲れ。新しい4月の朝の光が、テーブルを優しく照らしていた。
土曜の朝食後、週末は家族との時間を大切に過ごした。カナは新しいストライダーに夢中になり、家族で公園で過ごした時間は、久しぶりに充実したものだった。
そして月曜。新年度最初の重要案件の会議だ。
「つまり、先週のA/Bテストの結果から見えてくるのは…」
会議室のスクリーンには、ECサイトの行動分析データが映し出されている。ヒロのチームが開発しているAIツールは、ユーザーの回遊パターンを可視化し、コンバージョン率の改善につなげるものだ。新年度からは、自社のアパレルブランドのローンチも控えている。
ヒロが勤めている会社は、主に企業の売り上げ支援ツールの開発を行うIT企業。最近はAIを活用したツールの開発を行い、国内外の企業の支援を行なっている。ヒロはその会社の中堅社員であり、データアナリストのスペシャリストとして働く。業務は多忙だがやりがいのある仕事だ。
「このヒートマップを見てください。商品詳細ページでの離脱が、想定より23%多い。でも、その直前でのユーザーの行動パターンに、明確な相関関係があることが分かりました」
チームメンバーが頷きながらメモを取っている。膨大なアクセスログから、価値のあるパターンを見つけ出すのは、ヒロの得意分野だった。
「このグラフが表しているのは、ユーザーの悩みが解決できずに、サイトから離脱しているということです」
画面を切り替えながら、ヒロは説明を続ける。
「ボトルネックはどこにあるかをAIが判断し、その最適なサポートをしてくれます」
「データからユーザーの悩みを見つけ出すってすごいですね。」
ヒロより5歳年下の若手エンジニア田中が感心したように言う。田中はプログラミングやコンピューター相手の作業は得意だが、人の心理や行動経済学には疎い。ヒロのようにデータから人間の心理や行動を予測するのが苦手なため、ヒロのことを尊敬している。
若手エンジニアの田中が感心したように言う。
「ありがとう。データを見てると色々分かるようになってくるよ。なぜここで離脱してしまうんだろうって考えることで、ある程度、ユーザーの悩みが予測できるんだ」
ヒロはさりげなく答えた。
「でもデータに対する考え方がズレていると、どれだけ目を凝らしてもユーザーの悩みには辿り着かない。そこが難しいところだね。」
会議が終わり、自席に戻ったヒロは、ふと週末の海のことを思い出していた。
(サーフィンはうまくいってないんだけどな…)
アップルウォッチの記録を開いてみる。波待ち時間、パドリング時の心拍数、乗れた波の本数…。データは取れている。けれど、それらは断片的で、上達への道筋を示してはくれない。
「ヒロさん、新規プロジェクトの優先順位について相談させていただきたいのですが…」
後輩の声に意識を戻す。
「あ、ああ。もちろん」
仕事モードに切り替えながら、ヒロは考えていた。ユーザーの行動パターンから問題点を見つけ出し、解決策を提示する。それがこのプロジェクトの目的だ。
サーフィンも同じように問題点が見つかればいいんだけど、それが何なのかは全くイメージできない——。
サーフィンと仕事は違うからな…
新年度の始まりを告げる緑の木々が、窓の外で揺れていた。
AIツールの開発、アパレルブランドのECサイトリニューアル、それに加えて新年度特有の引き継ぎや新入社員の教育など、4月は例年以上に忙しい日々が続いていた。
4月の沖縄は南国特有の鮮やかな若葉を照らし始める。ヒロは慌ただしい平日の仕事をギリギリでこなし、家族の了解を得て、何とか週末のサーフィンにこぎつけていた。
今日の波はメンツルの腰から胸。時々、インサイドでチューブが巻くようなクリーンな波質だ。
普通のサーファーならテンションが上がって、準備運動も忘れて海に飛び込んでいくだろう。でもヒロは右肩の痛みがあるため、入念なストレッチをして、海に入る。
「今日も、無理はできないな」
肩の痛みを抱えながらのサーフィンは、どこか憂鬱だった。季節は確実に夏に向かっているが、朝一の海はまだ肌寒く、それが肩の痛みを余計に敏感にさせる。
「あっセット」
ヒロはセットの肩サイズの波にパドリングを開始する。波をキャッチしようと力んだところで「バコンッ」と大きな音を立てて右肩の関節がズレる。
「くっそ…」
苦痛に顔を歪ませながら、そのまま波と一緒にワイプアウト。ワイプアウトの寸前、波の向こうは綺麗なチューブが巻いていた。海の中でもみくちゃにされながら、ヒロは肩の痛みに無言で耐えている。
息も絶え絶え、ようやく水面に上がると右肩がズキンと痛む。
「今日はここまでか」
ヒロは右肩を庇いながら、岸に向かってパドリングする。ここ数年、こうして肩の痛みに耐えながらサーフィンすることが多くなった。
「お疲れ様です」
声をかけられて振り返ると、隣に停めてあった車から若いサーファーが降りてきた。サーフショップのスタッフらしい。いつも同じような時間帯に来ている常連の一人。
彼の名前はユウタ。サーフショップに勤める元競技サーファーである。現在は老舗のサーフショップのスタッフとして働きながら、ショップのサーフィンスクールなどの講師をしている。
「あ、お疲れ様です」
なるべく短く返事を済ませようとしたが、相手は構わず話しかけてきた。
「すみません、さっき海の中で見てたんですけど…」
少し躊躇いながら、しかし真摯な表情で続ける。
「パドリングの時、肩に違和感あるんじゃないですか?」
ヒロは思わず相手の顔をまじまじと見た。二十代後半といったところか。若いのに妙に説得力のある物言いだ。
「あ、いや…まあ」
「僕も実は、去年までそうだったんです。競技やってて、肩を痛めて」
そう言って軽く右肩を回す仕草をする。
「でも、フォームを変えたら、傷まなくなったんです」
普段なら、こういう会話はすぐに切り上げるところだ。でも、この若者の言葉には、どこか引っかかるものがあった。
「フォーム…ですか」
「はい。こうやって小指から落として肘で引く感じで…」
「小指から落として、肘で引く…なんか変なパドリングですね」
「最初は僕もそう思いました。フォームを変えると遅くなるし。でも試してみたら、体の使い方が変わって、肩が痛まなくなったんです」
「ユウタ!」
遠くから男性の声が聞こえる。
ユウタを呼ぶ声の主は、老舗サーフショップのオーナーであるシンジ。昔ながらのサーファー気質、価値観を大切にしている。ローカルコミュニティのボス的存在でもあり、競技サーフィン、ビッグウェーブを何よりも愛す。しかし、最近はサーフィンのECストアが増えてきて売り上げが下がり気味。サーフショップの在り方を変えたいと考えている。
「あ、すいません。スクールの時間なので…。また海で会いましょう!」
車に乗り込みながら、ヒロは考えていた。
これまで試してきたパドリングは、競技サーファーの試合で使うパドリングを真似したものだった。
腕をとにかく遠くまで伸ばし、思いっきり漕ぐ。とにかく速いことが正しい。それが基本だと信じていた。
小指から入れて、肘で引く…というよく分からない漕ぎ方は初めて聞いた。
正直、漕ぎ方を変えただけで痛みがなくなるとは思えないが、でも、もしかしたら…という期待が芽生える。
時計は午前7時30分を指していた。朝日が、爽やかな風と共に新しい一日の始まりを告げていた。
土曜の夕暮れ時。
ヒロはカナの様子を見守っていた。マンションの植え込みでは、若葉が一斉に芽吹き、春の訪れを知らせている。
沖縄の4月は「うりずん」の季節となる。本土の春とは趣が少し異なる。若葉がいっせいに咲き、草花はその彩りを増して、大地を潤していく。
「パパ、みてみて!」
誕生日プレゼントのストライダーに跨り、小さな足で地面を蹴って前に進むカナ。購入したばかりなのに、もう自分でバランスを取りながら進めるようになっていた。まるで、この季節の若葉のように、すくすくと成長している。
「すごい!もうそんなに上手くなったんだ」
「ふふん」
カナは得意げに笑顔を見せる。
「すごい?」
「うん、とってもすごい」
「ヒロ、そろそろご飯にしない?」
ベランダから、夕暮れの風と共にミナの声が届く。
テーブルにはミナの手作りマルゲリータピザが並んでいた。カナのために一切れ一切れが小さめにカットしてある。
「うわ、めちゃくちゃ美味しそう。」
「頑張ったからね」
ミナは笑いながら座る。
「それより、今日の肩の調子はどう?」
「うん…」
ヒロは言葉を選びながら続けた。
「実は今日、面白い人に会ってね」
朝の出来事を話しながら、ヒロはカナの方をちらりと見た。娘は自分のピザに夢中で、トマトとバジルをひとつずつ丁寧に拾い上げている。
「ふーん、あまり聞いたことない漕ぎ方だね」
ミナは、看護師としての視点で考えながら言う。
「でも、理にかなってるかもね。私もヨガを教えてて気づくんだけど、体の使い方って、力任せじゃないところにコツがあることが多いよ」
「へぇ、そうなの?」
「うん。例えば今の話でも、小指を下にして肘を引くっていうのは、背中の大きな筋肉を使うことになるんじゃないかな」
「背中?」
「そう。肘を引く動作って、実は肩甲骨を動かすことになるの。だから自然と背中の筋肉が使われるはず」
「へぇー。そうなんだ。パドリングって背中も使うのかな。腕の力で頑張って漕ぐものだと聞いてきたけど。」
「見た目はそうかもだけど、体って繋がってるから、もしかしたら効果あるかもしれないね」
これまでのパドリングはとにかく力任せだった。でも、もしかしたら…。
「パパ、おいしい?」
カナがピザの耳を手に持ち、ヒロの顔を見上げている。
「うん、とってもおいしいよ」
答えながら、ヒロは新しい可能性に期待する。
今までのように速さを求めた力任せのパドリングと、そうじゃないパドリング。
もしも、新しいパドリングで痛みが少なくなるなら…
南国の陽が傾きはじめ、若葉を透かす光が部屋に差し込んでくる。夕暮れが、家族の団らんを優しく包み込んでいた。