世界一分かりやすいサーフィン上達物語
「週末サーファーが上達するには仕組みが必要なんだ」
火曜日の夜九時。カナを寝かしつけた後、ヒロは書斎でノートPCの画面に向かっていた。オンラインミーティングの向こうで、ケンイチが少し前のめりになって話す。
「うん、それは理解した」
ヒロは考えながら答える。
「簡単に言うと圧倒的に反復練習の時間が少ないってことだよな」
「そう。これはフロリダ州立大学のエリクソン博士が考案したものなんだけど…」
「エリクソン?」
「1万時間の法則っていうものがあって、1つの分野でプロレベルになるためにはおよそ1万時間の練習を必要とする。という研究結果がある」
「ほう?」
「まあ仮にヒロがプロを目指したとして、年間に1.5時間しか練習できないとしたら、どれくらいかかると思う?」
「えーっと…6666年」
「紀元前4500年前ごろだから縄文時代の初期だな」
「縄文時代の初期から毎週末サーフィンして、ようやく現代でプロレベルになれるって計算」
「えっ無理ゲーじゃん」
「まあプロを目指すってわけじゃないから、1万時間も必要ないんだけど、英語だって習得するには3000時間必要って言われてるだろ?どんなことも、ある程度のレベルに達するには時間の積み重ねが必要ってこと」
「なるほどな。陸トレでその練習時間を増やすってことか」
「そういうこと」
「でもサーフィンの練習は海でしかできないんじゃ…」
「確かに、俺らって上手くなりたいなら、海に行く回数を増やせって教わってきたよな」
画面越しでケンイチが何かを取りに行く気配がする。
「そうだな。根性論だったな」
「それ間違ってたんだよ。サーフィンは陸トレもできる。例えばコレ」
ケンイチが青いドーム型の器具を画面に映し出す。
「それ何?バランスボールっぽいけど」
「ハーフバランスボール。本来はフィットネスに使うものなんだけど、これをサーフィンの陸トレとして使う」
「どうやって?」
ケンイチはハーフバランスボールを使って、イージーパドリングのデモンストレーションを行う。
「あっ」
次にハーフバランスボールをひっくり返して、その上に乗り、サーフィンのライディングの動作を見せる。
「おぉ」
「これを使って毎日練習する」
「すげぇ」
「これを毎日5分でいいから続けるんだ」
「5分でいいの?」
「最初はね。でもやり始めたら結局30分とかやっちゃうから」
「あっ歯ブラシテストと同じ要領か」
「おっさすがIT系、Googleの歯ブラシテスト知ってるんだ」
「習慣化の基本だからな。なるほどなー、それで毎日の練習時間を増やしていくわけね」
「じゃあ例えば、1年間、1日5分を毎日積み重ねたら?」
「5×365=1825分=約30時間」
「ヒロの年間練習時間が1.5時間だから、1年で20年分のサーフィン練習をしたことになるね」
「おぉ…1日5分でも20年分か…毎日30分やれば1年で120年分ぐらいになるね」
「そういうこと」
ヒロはカートに入れていたハーフバランスボールを見る。
「あっこれはポチります」
「おう」
オンラインミーティングを終了すると、部屋の中に静けさが戻ってきた。窓の外では、まだカナのストライダーが月明かりに照らされている。
ヒロはスマートフォンを手に取り、Amazonのカートを開いた。
3日後、Amazonから大きな段ボールが届く。
中には空気の入っていないハーフバランスボールが入っていた。
リビングでハーフバランスボールに空気を入れていると
「カナもやりたい」
少しずつ膨らんでいくハーフバランスボールに興味津々のカナ。
「うん、じゃあこれを足で押して」
空気入れのポンプを足で一生懸命に押すカナ。あまりちゃんと空気は入っていないけど、楽しんでる様子。
「すごいすごい。カナ上手!」
「えい!えい」
そうやって遊びながらハーフバランスボールに空気が入り、半円状のバランスボールが目の前に完成した。
「これ、なに?」
「うん、これはこうやって使うんだよ」
ハーフバランスボールの上に乗るヒロ。
「カナも!」
ヒロはカナを支えながら上に乗せる。
ハーフバランスボールの上でジャンプするカナ。
「楽しいー」
「うん、楽しいね。パパも使っていいかな?」
ヒロはカナが満足したのを見計らって、ハーフバランスボールを使い始める。
まずはケンイチに教わったイージーパドリングのトレーニング。
うつ伏せの姿勢で、ハーフバランスボールを胸からお腹の位置に置く。両足は伸ばして床につける。
「小指から落として、肘を引く」
ハーフバランスボールは地面から高さが離れていないため、肘を下まで伸ばせないが、それが良いらしい。
サーフボードと並行に漕ぐ意識付けができるそうだ。
手のひらで床をなぞるように、ゆっくりとパドリングの動きを練習する。肘を引く感覚が、普段よりもはっきりと分かる。
1分経ったところで、一度休憩。
「なるほどね。これはキツいわ」
最近は筋力の衰えも感じてるから、余計にキツく感じた。
(インプットとアウトプットか…確かに海だけで練習しても、無意識でできるようになるまでは時間がかかりそう。これを家で反復練習すればいいのか)
次はハーフバランスボールをひっくり返して、底面を上にして、その上に乗る。
ケンイチからは、このトレーニングができるのがハーフバランスボールのメリットだと教わった。
「確か、ニュートラルポジションって言ってたな」
詳しいことは次のサーフィンで教えてくれると言っていたが、ヒロはイマイチこれがサーフィンに繋がるかはピンと来ていない。
「とりあえず体幹の強化にはなりそうだからやっとくか」
そんな感じで5分間、ハーフバランスボールをひっくり返して、その上に乗ってバランスを取っていた。
(うーん、ケンイチの言ってた意味がなんとなく分かった気がする。インプットがズレていたらアウトプットもズレるってこういうことなんだろうな)
そう思っている時、ケンイチからLINEが届く。
「今度の土曜日、サーフィン行く?」
ヒロはハーフバランスボールの上に乗りながら「行くよ。その時、ニュートラルポジションって何か教えて。」とメッセージを返した。
サーフィンにはなかなか行けないけど、家で出来ることをやる。練習できないというモヤモヤが少しずつクリアになってくる感覚があった。
カナが駐車場でストライダーに乗る練習をしている。毎日少しずつだけど、確実に上手くなっているように見える。
(積み重ねか…)
ヒロはハーフバランスボールを見つめながら、土曜日のサーフィンを思い描いていた。
「いい波だな」
ケンイチはピークを見ながら言う。腰ほどの波が不規則なリズムで寄せては返している。
この3日間、ヒロは毎晩欠かさずハーフバランスボールでの練習を続けていた。肘を引くことを意識したパドリング。まだぎこちないが、少しずつ体が覚えてきている気がする。
沖のピークに向かいながら、ヒロはイージーパドリングを意識する。波を越えるたび、これまでと違う感覚に気づく。肩に余計な力が入っていないせいか、いつもより楽に進んでいる。
「どう?肩の痛みは?」
「うん、肩が痛むって感じではないな」
「それならOK、背中を使えてる」
2時間のサーフィンを終えて、二人は駐車場で着替えている。
「ヒロ、今日は次のステップに進もうか」
ケンイチはサーフボードを車に積みながら言う。
「よくテイクオフの時に倒れているじゃん?」
「えっ?バレてた」
「全然バレてるよ。あれな、下を見てるから倒れるんだよ」
「下?」
「ちょっとやってみよう」
ケンイチは駐車場でデモンストレーションを始めた。
「ヒロのテイクオフはこんな感じ」
確かに下を見ながらテイクオフしている。
「で、ニュートラルポジションを確保しながらテイクオフをするとこんな感じ」
下を見ていない。すごく安定したテイクオフのように見えた。
「分かりやすく言うと、骨盤を前に向けて、ファイティングポーズを取るイメージ」
ヒロは真似してみる。いつもの横向きの姿勢と違い、なんだか安定感がある。
「そう、その感じ。これが基本姿勢。この姿勢ならフロント、バックサイドにどちらも傾けられるし、屈伸もしやすい。波の動きにも対応できる」
「なるほど、確かに動きやすいかも」
ケンイチはハーフバランスボールを取り出し、ボール部分を下にし、その上に立って実演を始める。
「基本は3つだけ。波に合わせて傾ける、スピードに合わせて屈伸する、方向を変えるために捻る」
一連の動きは、まるで目の前に波があるかのように自然だった。
「さっきの波を覚えてる?バックサイドに行こうとした時に倒れたのは、このポジションが確保できてなかったから」
ヒロは思わず体が反応する。自分の動きを客観的に見せられているような感覚。
「またハーフバランスボールでの練習か」
「そう、でも今度は3つの動きに集中して。それだけでいい」
朝日がすっかり昇り、駐車場も少しずつ賑やかになってきていた。ヒロは車のキーを手に取りながら、カラダを通じた学びの手応えを感じていた。
5月下旬、沖縄は例年より早い梅雨入りを迎えていた。南からの風が止み、波のないフラットな海面が続く日々。ヒロは海に行く代わりに、自宅での練習に切り替えていた。
最初の1週間は5分から始めたトレーニングも、今では15分が定着していた。この1ヶ月、波のコンディションを見に行っても、いつもの南うねりは届かず、海面は鏡のように凪いでいた。ほとんどの日は自宅でのトレーニングに集中することになった。
その日も、平日の夜七時。ヒロは仕事から帰宅すると、いつもと違う光景が目に飛び込んできた。
リビングの中央にハーフバランスボールが置かれ、カナがその上でバランスを取っていた。ミナが横で支えている。
「パパ、みて!」
カナが両手を広げ、得意げに笑顔を見せる。
「おー!カナすごいねー」
「おかえり」
ミナが笑顔で迎えてくれる。
「カナね、このハーフバランスボール気に入っちゃって」
「そうなんだ」
ヒロはかりゆしウェアのボタンを外しながら、カナの様子を見つめる。
「それは良かった」
「うん、トランポリンみたいに使えるから楽しいみたいよ」
カナは嬉しそうにハーフバランスボールの上をぴょんぴょん跳ねている。小さな体が一生懸命バランスを取る様子は、まるで初めてストライダーに乗った時のよう。
夕食を終え、カナを寝かしつけてから、ヒロとミナはソファに座り、今日一日の出来事を話していた。窓の外は完全に暗くなり、静かな夜の時間が流れ始めている。
「最近、楽しそうだね」
ミナが、サモハンミルクティーを飲みながら言う。
「そう?」
少し考えてから、ヒロは続けた。
「うん、確かにそうかも」
「波がないのに、毎日練習続けられてるもんね」
「うん。今までは何をどうすればいいか分からなかったけど、今は何をやればいいか分かっているからかな」
梅雨入りから一ヶ月。たった15分の練習でも、毎日続けることで、骨盤が横に向いて、ガニ股だったスタンスが、骨盤を前に向けた自然な姿勢に変わってきていた。
ミナが寝室に向かった後、ヒロはハーフバランスボールをひっくり返して、その上に立つ。
「ファイティングポーズのようなイメージ」
ケンイチの言葉を思い出しながら、まずはニュートラルポジションのトレーニングから始める。
「傾ける、屈伸、ひねる」
声に出しながら、3つの基本動作をハーフバランスボールの上で練習する。最初は不安定だった動きが、少しずつスムーズになってきているのを感じる。
ピピピ。
スマートフォンの15分のタイマーが鳴る。
「よし、今日はこのくらいかな」
梅雨入りしてから毎日続けている15分のトレーニング。小さな積み重ねが、確実な変化を生み出している。
「今日も頑張った…っと」
ケンイチに教えてもらった習慣化のコツ。月めくりカレンダーにトレーニングをした日にスタンプを押すという単純な行為だが、効果は絶大だった。
「この一ヶ月、一日も欠かさずスタンプが押せてるな」
カレンダーにスタンプを押すこと自体は、とても小さな報酬。でも、今ではスタンプを押せない日があるとストレスに感じるようになっている。そのストレスを逆に利用して、スタンプを押さないと気が済まない状態に持っていく。それが習慣化のコツだとケンイチは言っていた。
その時、スマートフォンが震える。ケンイチからのメッセージだ。
「お疲れ!どう?トレーニング続いてる?」
「お疲れ。毎日やってるよ」
「おーすごいね。ニュートラルポジション慣れてきた?」
「うん、大分できるようになった」
「いいね、じゃあそろそろ次のステップに進もうか。今度サーフスケートっていうスケボーで練習してみよう」
「スケボー?」
ヒロは思わず声に出る。
「もう20年ぐらいやったことがないけど…大丈夫か?」
「大丈夫。大丈夫。安全なやつだから」
「ならいいけど。スケボーは怪我した経験しかないから。サーフィンに関係あるの?」
「社会人がサーフィンとかスケボーで怪我したらダメでしょ。だから安全にやるよ。サーフィンにめちゃめちゃ関係ある」
「オッケー、それなら頼む。梅雨明けたら教えて」
「了解。その前にまたサーフィンに行こう。熱帯低気圧のうねりが届きそうだから」
スマートフォンを置いて、ヒロはもう一度カレンダーを見上げた。星のスタンプが並ぶ一ヶ月。波のない期間を、こんなにも充実して過ごせるとは思っていなかった。
窓の外では、梅雨の夜空に星が見え始めていた。南からの風が戻り、新しい波が届く予感が、静かな夜のリビングに満ちていた。
「今日はいい波だな」
6月の下旬。梅雨が終わり、少しずつ波のコンディションが整うシーズンになった。
土曜の早朝、ケンイチと並んで波を眺めながら、ヒロはタッパーを着ていた。
この1ヶ月、梅雨の間ずっと毎晩欠かさずハーフバランスボールでの練習を続けてきた。背中の筋肉痛を感じることも少なくなり、体の動かし方にも少しずつ変化を感じている。
「どう?家での練習は続いてる?」
「うん、毎日15分やってるよ」
ヒロは少し照れくさそうに答える。
「娘が気に入っちゃってさ。一緒に遊ぶみたいな感じで」
「それはいいね。トレーニングも遊びもと一緒で、楽しくないと続かないからな」
ケンイチが波のセットを見ながら続ける。熱帯低気圧の影響で、久しぶりに波が戻ってきていた。
「じゃあ、今日は沖に出る前に、ちょっとイージーパドリングのフォームをチェックしてみよう」
砂浜でボードを広げ、ヒロがフォームの確認を始めた時、奥から歩いてくる人影が見えた。
シンジだった。ショートボードを抱え、黙々と海に向かっている。
シンジは地元の有名なサーフショップのオーナーだ。元々は競技サーファーで、ビッグウェーバーでもあり、ローカルコミュニティのボス的存在として知られている。
ヒロもサーフィンを始めた当初にショップにはよく通っていたため、顔見知りの仲である。
シンジはヒロとケンイチに気付いても、自分からは挨拶をしない。
「おはようございます」
ヒロが声をかける。
「ああ」
シンジは素っ気なく返事をして、そのまま海へと向かった。
「あのヒトも変わらないな…じゃあ俺たちも海に行こうか」
苦笑いをしているケンイチの声に、ヒロは頷く。
沖に出ると、シンジはピークの奥で波を待っていた。
シンジが入っていると、周りの空気がピリつき、ピークに近づきかがたい雰囲気になる。
ヒロたちはピークから少しだけズレたインサイドの方で、リラックスしながら会話をしている。
時折、ヒロたちの方をチラッと見ている。どうやらうるさいと感じてるらしい。
「一回ここでパドリングとニュートラルポジションの確認しよう」
ケンイチが声をかける。
「小指を下に向けて、肘で引く。肘を伸ばさないようにしてボードと水平に漕ぐ。テイクオフの時は下を見ないようにニュートラルポジションで…」
その時、シンジの表情が少し曇るのが見えた。イージーパドリングやニュートラルポジションという言葉に、どこか不快感を覚えているようだ。
セットが来る。シンジは素早くターンして、力強いパドリングで波をキャッチ。ショートボードで45歳とは思えないライディングを見せる。
「今のいい波でしたね」
インサイドから回り込んで戻ってくるシンジにヒロが声をかける。
「そうだね。今のはよかった。乗れてる?」
「いやー、なかなか」
「ふーん、変なパドリングしてるからじゃない?」
「えっ」
「進まないでしょそれ。腕伸ばしてないし」
「えーっと、そうですかね」
「前の方から強く漕がなきゃ波キャッチできないよ」
「肩が痛くて…」
「あぁ、毎日サーフィンしないと無理か。頑張って」
「あはは、そうですねー」
シンジは一度も笑わず、少し威圧感のある調子でヒロと会話をする。
ヒロもどこか気まずそうだ。
ケンイチは黙って二人のやり取りを聞いていた。
「どうしたケンイチ」
「いや、サーフィンのボトルネックが分かったような気がして」
「ボトルネック?」
「うん、いやなんでもない。サーフィン中はサーフィンを楽しもうぜ。セットの波来てるよ」
ヒロは波に向かいながら、ケンイチの言葉の意味を考えていた。
朝日が昇り、波は黄金色に輝いていた。