サーファーは一般の人々に私たちが海で教わったことを伝えなければいけない!
カービー福永さんが代表を務める GONAMINORI から派生した BEACH-PRESS は、本当の意味でサーフィンを追求してますよね。
編集長のエリツィンさんは、日本サーフィンの在り方に色々と意見を言うところが好き。やっぱり世界でサーフィンしてきたら感じるんでしょうね。
そのエリツィン編集長の記事の中に超面白いサーフィン哲学がございました。
サーフィン哲学
サーフィンワールド20周年記念の別冊 SURFING ON MY MIND に掲載されていた、スティーブ・ペズマンさんのコラムだそう。平成8年って言えば僕はまだサーフィンを始めていない。それでも現代に通じるサーフィン哲学を語っていました。
以下引用です。
雑誌 SURFING ON MY MIND 平成8年1月15日発行
Title The Mirror by Steve Pezman (Page21)90年代からサーフィンを見てきたものとして、私はサーフィンとはなにか、そしてサーファーになるとはどういうことかという感じをつかみ、理解しはじめたように思う。
サーフィンというのはとにかくひじょうに個人的な活動で、それは現代のようにひじょうに混んできた状況でも、サーファーは大海原でただひとり、自分の考えと行動の世界の中にいるからだ。そして中には荒っぽく騒がしく、攻撃的で競争心が激しい人もいるが、一方では静かで考え深い人もいる。ただ、それらは陸の上であれ、海の中であれ、人間として個性があらわれるようにサーフィンもおなじなのだ。
そんなわけで、サーファーそれぞれが持つ独特なスタイルには個性があり、チャカチャカしてたり気まぐれだったり、スムース、知的、本能的、筋肉質,デリケートなど、さまざまなサーファーを見ているとサーファーとは何かということがわかる。彼らのスタイルとは、パドルアウトして沖へ出て行った時から帰ってきたときという時間の区切りのなでとらえるものではなく、彼らの生き方そのものなのだ。
たとえば、ロペスがサーフボードをチューンし、食事や卓球を楽しみ、車から降りて自分のクイバーを選び、ワックスがけをして、12フィートの波を全く滑らかでスムースに滑った後、優雅にビーチから上がり、彼一人の世界に戻るというシチュエーションを考えても、それは彼の生きる姿のほんの一部にすぎないのである。
サーファーのスタイルとは、もっと広い意味での個人的なメッセージなのだ。ロペスが一つの生きる手本であるように、サーフィンというのは、ある個人が自分はこうでありたいと望む理想像に近づき、そうなっていくことにほかならない。ところが、彼の波の一本一本は人生観の象徴であり、はじまりや挫折、そして死を意味すると考えられる。つまり。素晴らしいのは、一回のライドで何回も生と死といった究極の人生を体験できることなのだ。波の一本一本から、人は海や自分自身について何か一つ教訓を得、そして学んでいく。一回一回、海がインストラクターというわけである。だからおろかにも逆らったものには自然の掟が厳しく立ちはだかる。結局、いかに自然に溶け込み、調和し、一体化できるかが、波をメイクするということにつながるわけだ。
長年の試行錯誤を通して、私たちと海の関係は荒々しい部分を削り落とされた。あるいは、極端な場合はその関係を終わらされてしまった。しかし、サーファーは海からとてもユニークな知恵を学んできた。それは漁師が海で骨折って働き、海からの収穫で生活するのに対し、サーファーは共に流れ、その懐で遊ぶということだ。言いかえれば、非生産的な哲学を学んだのである。
しかし、これはじつは地球生命全体の壮大な目的を背負うものとして選ばれたと考えることができ、人間社会におけるサーファーの役目はより高いランクをつけられるとも思えるのだ。
悪名高いLSD愛好者で、反キリスト教の哲学者であるティモシー・リアリー博士は、かつて、サーファーマガジンのインタビューで、サーファーとは人類全般の進む方向を探るため、皆よりも列の先頭へ出され、道なき道をあゆまされているのだと語ってくれたことがあった。彼の説明によると、「人間の最終目的は、純粋に美的存在に到達することである。すなわち、人類はこれまで主に自分を守って富を得るという、より低い次元で進歩してきたが、サーファーは本質的に一般社会が気づくよりもずっと早く高い次元に達した」というのである。
つまり、サーファーは「今、この時間」というサーフィンの奥義に向けて、純粋な目的のためだけに生きていることが高い次元にいることの証明だというのだ。サーファーは何も生産せず、空虚なダンスを踊っているだけかもしれないが、リアリーは、私たちサーファーは一般の人々に私たちが海でおそわった事を伝えなければいけないというのである。
親の世代からみれば、私たちサーファーは怠け者でドロップアウトした、「いまどきの若いモン」でしかないが、リアリーの見方は人間文明の救済者という可能性をサーファーに示してくれたわけで、じつに皮肉なものだといえる。しかしこの説に出会ったことで、波に乗るという単純な行動が今までの人生経験の中でどうしてもベストワンになるのはなぜか、という密かな疑問が解明されたようなきがする。
だから54歳という歳になってもいまだサーフィンだけはやめられないのである。
『サーファーは一般の人々に私たちが海でおそわった事を伝えなければいけない』 | Beach Pressオフィシャルブログ:Beach Pressエリツィン編集長のブログ
エリツィン編集長はプラトン
Beach Press の編集長は、間違いなくサーフィン哲学のプラトンです。F+のYuki編集長もそうであるように、世界のサーフィンや哲学を日本に翻訳して届けている。
彼女達の言葉は、ソクラテスのプラトン、ブッダのアマンダと同じサーフィンの翻訳家だと思います。
エリツィン編集長はこうも書いています。
で、サーフィンっていうのは、そのただ純粋に楽しい人生っていうのを、いとも簡単に経験させてくれる素晴しいツール。太陽がふりそそぐ青い海で波に乗る。波に乗るのは強烈なまでに最高の瞬間。夕日が沈んで空が信じられない色に移り変わるのをながめながら、友達と楽しすぎるひと時を過ごして、こんどはお腹がすきすぎてご飯を食べる。このご飯がこれまた信じがたいほどおいしい。サーフィン後のごはんよりおいしいごはんはない。4時間も5時間もパドルした後の体は、ありえないくらい疲れているのに、その疲れさえ心地よく、ビール飲んで、今日乗った良い波のことを皆で語り合って、次の日の波のためにとっとと深い眠りへと落ちる。で、次の日また同じことを繰り返す。これだけ!
これを何度も繰り返している間に、サーファーは次第に、これこそが人生だってことに気づきはじめちゃうわけです。で、それを知らない人に伝えるのが私たちの役目だってことです。ただただ気持ち良い毎日を繰り返すのもサーファーとして最高の人生ではありますが、この気持ちよさを伝えなければいけない。
ほんとその通りなんですよね。僕も同じでサーフィンって何も残らないんです。ただその日「人生で一番楽しかった」と思える日が何回もアップデートされる。だから止められない。
私のサーフィン哲学
誰にだってサーフィンを続ける理由がある。
僕は以前までサーフィンは毎日したいって思っていた。
若い頃サーフボード1つ持ってNZやバリに長期滞在した経験のせいで、どうしてもサーフィンを辞めることができなかった。
そしてついには仕事を辞め、世界中何処でも暮らせるようにノマドスタイルの仕事を始めた。
息子が生まれた後も、サーフィンという行為が好きだった。
そして、息子も妻も連れて2ヶ月過ごしたハワイ。
ハワイでは毎日サーフィンを楽しみハワイアンとも顔見知りになって彼らのサーフィンを肌で感じた。
その中に朝5時から朝7時まで毎日サーフィンしてるおじさんサーファーと知り合いになった。
サーフィンはそんなに上手ではないけれど、毎日毎日サーフィンできることに感謝してるそう。家族の理解とサーフィンの文化がそうさせてるんだよとも語ってくれた。
僕はいま、沖縄でサーフィンという行為をしていない。今後も1ヶ月に1回行うかどうかだろう。
そのかわり息子と毎日海で遊んでる。
娘のハチアッチー(初のお出かけ)も海だった。
サーフィンという行為はしていないけど、ボクのライフスタイルの中にはサーフィンがある。
波に乗ってなくても、海を感じることができるし、サーフィンしてる感覚になる。
「サーフィンってなんだろう?」
少なくても波に乗るだけの行為ではないという答えは出ている。
自分の好きな場所で毎日サーフィンする。
それが我が家のサーフィンなんだろうなって思う。
サーファーだけじゃないって追記
じゃあサーファーだけがその感覚を得ているのか?っていうとそうではないと思う。
カメラ、マラソン、サイクリング、ウォーキング、ダイビング、釣り、ゴルフ、スキー、スノボー、山登り、ロッククライミング。自然を舞台にしたアクティビティスポーツは全般そう感じていると思う。
結局サーファーが素晴らしいってことではなくてカラダをダイレクトに使って、自然と戯れてるとそうなる。たったそれだけのことなんじゃないかなと思う。
サーファーを美化したいわけではなくて、リアリー的に言うと「非生産的な哲学を学んだ人達」は人間文明の救済者ということです。
っていうか哲学を学ぶって事自体がすでに非生産的ですから。生産的っていうとひどく人間的ですが、要は生物としてセロトニンをいかに分泌させるかってことかもしれないですね。
あなたのサーフィンってなんですか?